繊維学部の伝統について(母校の伝統)

明治40年、長野県立甲種蚕業学校長三吉米熊と長野県主席視学与良熊太郎が長野県知事大山綱昌の命により学校誘致を開始した。大山知事の二男は日露戦争で満州軍総司令長官の大山巌。西郷隆盛は兄の息子(甥)であった。三吉米熊は京都寺田屋で急襲された坂本竜馬を助けた親友の槍の名手、三吉慎蔵の長男であった。日露戦争の戦費40億円(現在価40兆円)で国家財政は破産状態であったため上田町8万円、小県郡7万円、長野県25万円計40万円(現在価40億円)の寄付を申し出た。上田町の年間予算は3万2千円の時代だった。当時、日本の輸出額は生糸、絹織物で34.1%を占めていた。

明治43年3月に母校の前身である官立上田蚕糸専門学校が蚕糸に関する日本で最初の高等教育機関、また長野県下初の官立学校として創立された。

大正時代には単科大学昇格の行動を起こしていた。東京高等工業学校は東工大に、東京高等商業学校は東京商科大学(現一橋大)になったのを追い、単科大学昇格もあり針塚校長は申請していた。衆議院は通ったが貴族院で通らなかった。理由は今となっては不明である。

大正時代から先進的な教官たちは人造繊維、化学繊維の時代を先取りし化学科設置運動を起こしていた。それが実り昭和15年日本初の繊維化学教室が京都大学より1年早く設置された。

戦後、昭和22~3年の単科大学昇格運動は、激しい運動であった。国会議員、県知事の力を得て、学校と同窓会は署名活動など行い、それをリュックに入れた学生が夜行列車で上京し東京に待機する地元代表の国会議員の手引きで文部省、GHQまで嘆願に行った。単科大学として独立するという気構え誇りがあった。しかし紆余曲折があったが成果は得られず、教養課程と教官をそのまま置くことを許される特例をもって昭和24年母校は信州大学繊維学部となった。

 昭和35年には繊維産業の時代の趨勢に応じ改革期成同盟会を設置し、長野県選出の木内四郎国会議員が会長を務めた。大きな予算を要する施設の充実と繊維農学科、繊維工学科、繊維化学科、に改編し、繊維機械科の新設を行う大改革が行われた。繊維産業振興のための学部であった。

昭和30年代後半から教養部統合が議論され始め、昭和41年3学入学生から松本で1年教養課程を履修することになった。この時、繊維学部にいた教養課程の教官が松本にペテンの如く吸い取られてしまったと当時を知る教官が語っている。このことにより単科大学昇格への足掛かりは失われたことになる。さらに昭和後期まで繊維産業の斜陽化に伴い、学科名から繊維の呼称がなくなり、学問はアカデミズムであるべしとして産学連携の実学を軽視する風潮も生まれた。

昭和37年には東京農工大から繊維学部がなくなっている。40年蚕糸の教育・研究を東京に集約するという蚕糸統合蚕糸統合問題が起こるも長野県選出の国会議員羽田武嗣郎の反対により45年文部省案は見送りとなり、上田に蚕糸は残った。蚕糸業から母校の誘致の歴史など地元との関係は深い。全国9大学に繊維を冠する学科が19学科あった時代もある。京都工芸繊維大学は平成17年繊維学部を廃止した。三繊大学と言われた時代は終わり、わが国唯一の繊維学部となった。

平成3年日本学術会議は繊維学教育の必要性に論及している。平成7年文部省科研費COEの応募があり白井学部長は地方国立大では無理と言われていたが応募した。3年後これに採択され大きな予算が付き成果も上がった。これまでの繊維学をさらに押し広げファイバー工学として先進ファイバー工学教育研究拠点として採択され、次いで国際ファイバー工学拠点、ファイバールネッサンスを先導するグローバルリーダーの育成、等に次々と採択されるような成果につながり、繊維学部の近代化が図られ、学部の歴史は大きく変わった。成果はそればかりでなく、内閣府の科学技術振興調整費の公募にナノテク高機能繊維がもたらすイノベーションとして「ナノテク高機能ファイバー融合連携拠点」にも採択された。この研究から繊維の量産試作が可能な施設の必要性が高まり、ファイバーイノベーションインキュベーター(Fii)の建設に結びついていくのである。さらに長野・上田地域知的クラスター創成事業の採択にもつながって行く。これらの事業がAREC、そして様々な産学連携の仕組みの構築にもつながって行った。

このように見ると養蚕製糸の時代から現在まで学部は産学連携の実学が生きる道であり追い求めてきた道であると言える。これも伝統の一つであろう。 平成16年国立大学法人信州大学(独立行政法人化)となった。これにより大学の運営は大きく変わった。予算の厳しさ、人員削減などから諸々の問題が内在している。伝統がどう向かうか問われる時代となっている。