繊維学部の伝統について(学問・研究の伝統)

前身の上田蚕糸専門学校は絹、生糸、蚕種を国家の重要産業としていた時代背景からエリートが全国から集まった。当時から中国、韓国からの留学生が来ていた。技術者育成を目指す専門学校でありながら研究にも力を注いでいた。初期の同窓会誌はあたかも研究論文集のごとくであった。その後この研究論文集は蚕糸学雑誌として同窓会が発刊を続けた。卒業生は養蚕製糸の技術者、指導者、研究者として職に就いた。当時の卒業生は質実剛健の校風だったと語っている。

 学科は当初、養蚕科と製糸科から始まった。これが現在の1学部で農学士と工学士が生まれる発端となった。絹、生糸、蚕種の生産が国家財政を支える主要な産業でありその研究者技術者を育成する学校であったから、産学連携という言葉がない時代から産学連携の実学に重心があった。

養蚕科は蚕そのものと餌になる桑の研究として、品種、遺伝、育種、栽培、病理、微生物、といった分野が学問となった。この歴史があり地方大学発のアイソトープ設置、そしてその後の遺伝子実験施設の繊維学部設置につながったのである。その後養蚕科は、繊維農業科、次いで繊維農学科に名称を変えさらにそれが応用生物科学科、生物機能科学課程、生物資源・環境科学課程、バイオエンジニアリング課程へと発展して来たが、バイオエンジニアリング課程は機械ロボット学科に移設され、残った2学科は応用生物科学科となった。

同じように製糸科は紡織科となり、繊維工学科となり、さらに繊維システム工学科と繊維機械科になって行った。さらにシステム工学科は先進繊維工学科になり機械科は機械ロボット学科になった。日本初の感性工学科も生まれた。

一方、昭和の初期から人造繊維、化学繊維の幕開けが始まった。昭和15年、日本初の繊維化学科が設置され、やがて繊維工業化学科になり更に素材開発化学科になった。繊維化学工学科が生まれ精密素材工学科となり、並んで機能高分子学科も生まれた。これらが統合され材料工学課程、応用化学課程、機能高分子学課程となり、これが更に統合され化学材料学科となった。

昭和39年には大学院修士課程、平成3年には博士課程といずれも信州大学では最も早く設置され繊維学部の高度化が図られていった。

明治43年の官立上田蚕糸専門学校創立から昭和24年には信州大学繊維学部となり、現在までにこのような変遷があったが、昭和30年代後期から他産業の趨勢、繊維産業の衰退から繊維学部は不人気となった。これを挽回する為、学科の近代化が図られ学科名から繊維の呼称が外された。繊維学部を廃し第2工学部へという意見もあった。しかしながら平成3年日本学術会議は繊維学教育の必要性に言及し、繊維学部は平成10年文部省科研費COEに採択された。これにより繊維学部の原点回帰がなされ現在に至っている。

 このように養蚕・製糸のスタートから周辺の科学技術分野の研究を取り込んでいった結果、極めて広い分野の学問研究が繊維学部には存在するようになった。そしてその応用は繊維と無関係な領域にまで広がってきているが、この繊維というフィールドに拘る実学を背景にした独自性と研究分野の多様性が繊維学部の学問的伝統ではないだろうか。